2009年06月19日

ドラマ「明成皇后」を見る(4)−晩年期

 晩年期は、明成皇后役として チェ・ミョンギル さんが演じることとなります。 (下の写真) イ・ミヨン さんに比べるとちょっときつい感じになってきますが、同時に少し豪快な雰囲気が出てきました。隣の写真は高宗(こじょん)です。

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 さて1882年の壬午軍乱にて、一度は大院君が明成皇后を宮から追い出したのですが、結局、その後大院君は清に幽閉され、明成皇后は宮に戻り、再び実権を握ることになりました。ある面、宮中では安定した基盤を作ったのですが、次第に日本の軍事的・政治的干渉が強くなってきました。当時、日本と清は朝鮮を巡って緊張した関係にありましたが、1894年に日清戦争が勃発しました。日本は日清戦争のために10年準備したそうです。日本は英式の最新武器で清を攻め勝利しました。このことは朝鮮にとって大変ショッキングな出来事でした。あの大国である清が日本に負けるとは考えもしなかったのです。

 日清戦争後、日本の朝鮮に対する干渉は更に強くなりました。当時、外務大臣であった井上馨氏が朝鮮の外交に当たっていました。その頃の朝鮮の情勢は、やはり明成皇后勢力と大院君の勢力に2分されていました。そこで、井上外務大臣は、明成皇后を味方に付けて、朝鮮進出に取り組もうとしました。
 実はその頃、明成皇后と大院君との関係に大きな変化があったのです。明成皇后も大院君もともに、日本の朝鮮進出に相当な危機感を感じていました。そこで、明成皇后は大院君と内密に会い、「我々は政策が違うだけで、国を思う気持ちに違いはない」と訴え、お互いに水面下で手を組むことを決意したのです。このシーンは本当に感動的でした。お互いに殺したいほどの恨みを持ち続けていたのですが、お互いを許し、国を守っていくことを決意したのです。

 その後、明成皇后と大院君は表面上は争いあっているふりをしながら、芝居を打っていったのです。明成皇后は井上外務大臣をうまく利用して、多額の投資をさせました。そしてその資金を内密に大院君に渡し、大院君は清から武器を購入する準備をしていました。それは、日本の侵略を防ぐための戦略だったのです。
 しかし、明成皇后と大院君の共同作戦は、日本軍に知られて失敗に終わり、武器を入手することはできませんでした。そこで、その後、明成皇后はロシアと親しくし、それを盾に日本を牽制していきました。同時に大院君とも協力・相談しながら、少しずつ父と娘のような心情関係を結ぶようになりました。
 なお、井上外務大臣は明成皇后にうまく利用されたことの責任を負わされ、日本に帰国することとなりました。そして井上外務大臣の後任となったのが、三浦五楼氏でした。井上外務大臣は英国に留学したエリートで外交のエキスパートだったのですが、何と三浦五楼氏は根っからの軍人で融通が利かず、外交には全く縁のない人だったのです。しかし、このことが明成皇后の運命を大きく変えることになるのです・・・。

 果たして明成皇后の実像とは・・・
posted by タール星人 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月17日

石井光治元会長の昇華に寄せて

ishii_001.jpg 6月15日朝、第6代目の世界基督教統一神霊協会(統一教会)会長であられる石井光治元会長が一心病院にて昇華されました。
 6月16日の帰歓式に参加させていただきました。主礼は桜井 設雄元会長が務められ、草創期に共に歩んできた証しを多くされました。続いて宋 榮錫総会長が特別メッセージを語られました。今回は文鮮明先生から石井元会長に「心情開放苑主導者石井君 祝忠情誠情伝統試範者天国入城萬歳石井君」とうい揮毫が下賜されました。約2時間ほどの帰歓式でしたが、昔を懐かしむような暖かい雰囲気に包まれた式典となりました。最後に施主であられるトミ子夫人が親族代表をされました。昇華する3日前から石井元会長は、もう霊界に行くべきかまだ地上に残るべきかと迷うような状態になられていたようです。しかし最後は、霊界に言って責任を果たすと言われながら、静かに眠るように息を引き取られたそうです。

 石井元会長は昨年の暮れから今年の初めにかけて、世田谷教会に何度か足を運んで下さり、礼拝の説教を担当されたり、壮年婦人達との懇談会の場を持って下さいました。その当時から、持病を患っておられ、かなり体調も思わしくなかったのです。しかし神様のみ旨成就の為の熱意は相当なもので、何時間にもわたり教会員達にみ言を語られ、あるときは質問に答えられながら、復興の場を与えて下さりました。
 実は、今年の1月18日に壮年の1Dayセミナーを行いましたが、そのときは一心病院の方も付き添いながらのセミナーとなりました。昨年の暮れに倒れられ、それから一心病院に入院されていたのです。入院先から直接、私たちのために車椅子でセミナーに駆けつけて下さったのです。
 そして、それが石井元会長の最後の公の集会の場となったのでした。そういう面では、石井元会長と世田谷教会との深い関わりを感じざるを得ません。私たち教会員にも父親のように、兄のように近く接して下さり、その想い出は生涯の宝となることでしょう。
 神様と人類を愛し、復帰の心情で溢れていた石井元会長でしたから、肉体を脱ぎ霊界に旅立たれてからは、縦横無尽に霊界で活躍され、我々地上にいる教会員達に協助して下さることを確信致します。
 本当にありがとうございました。心よりご冥福をお祈り致します。
posted by タール星人 at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月14日

ドラマ「明成皇后」を見る(3)−中年期

 中年期は、明成皇后役として イ・ミヨン さんが演じることとなります。 (下の写真)

imiyon2.jpg

 幼少期の明成皇后は、とにかく孤独な路程でした。しかし李尚宮は王子を出産したものの、かなりわがままだったため、高宗は少しずつ李尚宮から気持ちが離れていくようになりました。そして、明成皇后の所に足を運ぶようになってきました。そして、最終的に李尚宮は横暴な行動が目に余り、明成皇后から宮を追い出されることになりました。このことが明成皇后の「嫉妬深い」ということに繋がったのでしょう。実はその後、高宗は張(ちゃん)という尚宮とも関係を持つようになり、やはり男児を出産しますが、明成皇后は張尚宮を宮から追い出すことになるのです。

 明成皇后は4回懐妊しますが、そのうち3回は流産や出産後まもなく亡くなるということが続き、なかなか世継ぎに恵まれず心を痛めていました。やっと王子を出産することになるのですが、病弱で常に心配の種だったのです。
 しかし、世継ぎとなる王子が生まれてから、明成皇后の権力は次第に強くなっていきました。それまで、大院君が独裁的に政治を行ってきましたが、徐々に明成皇后が口を挟むようになったのです。そして1873年、明成皇后は大院君を宮から追い出すことに成功したのでした。それからというもの明成皇后は外戚である閔氏一族を重役に登用していき、閔氏による勢道政治を行っていったのです。このことは国民から大きな反感を買うようになってしまいました。
 その頃から明成皇后は開国政策をとり、日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結するなど積極的な開化政策を行い様々な面で近代化を実施しまた。しかし当時の朝鮮は、まだ鎖国意識、反日感情が強く、このことが更に反感を強めることとなりした。

 そして1882年、様々な不満が開化政策に不満を持つ大院君等の勢力と合わさり朝鮮の旧式軍隊が明成皇后暗殺をもくろんだ(壬午軍乱)のです。その際、多くの明成皇后派要人や日本人が殺され、日本大使館が焼き討ちにされたが、事件を察知した明成皇后は侍女を自らの身替りとして王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清の袁世凱の力を借りて窮地を脱したのです。その後、大院君はその罪を問われて清に3年間幽閉されたのです。

 このように、明成皇后と大院君の因縁の対決は熾烈を極めました。そのことによって多くの人が犠牲となりました。明成皇后の実母と実兄は大院君の手下によって暗殺されたのです。その悲しみと恨みは相当なものだったでしょう・・・。

 果たして明成皇后の実像とは・・・
posted by タール星人 at 20:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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