
幼少期の明成皇后は、とにかく孤独な路程でした。しかし李尚宮は王子を出産したものの、かなりわがままだったため、高宗は少しずつ李尚宮から気持ちが離れていくようになりました。そして、明成皇后の所に足を運ぶようになってきました。そして、最終的に李尚宮は横暴な行動が目に余り、明成皇后から宮を追い出されることになりました。このことが明成皇后の「嫉妬深い」ということに繋がったのでしょう。実はその後、高宗は張(ちゃん)という尚宮とも関係を持つようになり、やはり男児を出産しますが、明成皇后は張尚宮を宮から追い出すことになるのです。
明成皇后は4回懐妊しますが、そのうち3回は流産や出産後まもなく亡くなるということが続き、なかなか世継ぎに恵まれず心を痛めていました。やっと王子を出産することになるのですが、病弱で常に心配の種だったのです。
しかし、世継ぎとなる王子が生まれてから、明成皇后の権力は次第に強くなっていきました。それまで、大院君が独裁的に政治を行ってきましたが、徐々に明成皇后が口を挟むようになったのです。そして1873年、明成皇后は大院君を宮から追い出すことに成功したのでした。それからというもの明成皇后は外戚である閔氏一族を重役に登用していき、閔氏による勢道政治を行っていったのです。このことは国民から大きな反感を買うようになってしまいました。
その頃から明成皇后は開国政策をとり、日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結するなど積極的な開化政策を行い様々な面で近代化を実施しまた。しかし当時の朝鮮は、まだ鎖国意識、反日感情が強く、このことが更に反感を強めることとなりした。
そして1882年、様々な不満が開化政策に不満を持つ大院君等の勢力と合わさり朝鮮の旧式軍隊が明成皇后暗殺をもくろんだ(壬午軍乱)のです。その際、多くの明成皇后派要人や日本人が殺され、日本大使館が焼き討ちにされたが、事件を察知した明成皇后は侍女を自らの身替りとして王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清の袁世凱の力を借りて窮地を脱したのです。その後、大院君はその罪を問われて清に3年間幽閉されたのです。
このように、明成皇后と大院君の因縁の対決は熾烈を極めました。そのことによって多くの人が犠牲となりました。明成皇后の実母と実兄は大院君の手下によって暗殺されたのです。その悲しみと恨みは相当なものだったでしょう・・・。
果たして明成皇后の実像とは・・・