2009年06月27日

平和統一和合祈祷会−6・25朝鮮動乱に寄せて

 2009年6月25日、1950年6月25日の朝鮮動乱から59年目を迎えるこの日に、世田谷教会では午前9時より「平和統一和合祈祷会」を行いました。約70名の教会員が集い、心をひとつとしながら統一のための熱い祈祷を捧げました。まず最初に6・25朝鮮動乱に関するプレゼンテーションを受けることになりました。

6・25朝鮮動乱について
  1945年8月14日、日本がポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏し第二次世界大戦が終結しました。それまでの朝鮮は日韓併合により植民地化されていましたが、日本から解放され、いよいよ独立の方向に向かいました。
 しかし、朝鮮半島内では、独立運動を志向する諸潮流があったものの、それらを統一的に導ける組織は存在していなかったのです。その後、1948年8月13日に、李承晩が大韓民国の成立を宣言し、金日成はこれに対抗して自らも9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させたのです。この結果、北緯38度線は単なる境界線ではなく、事実上の「国境」となったのです。
 そして1950年6月25日午前4時に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始されました。30分後には約10万の兵力が38度線を突破した。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸しました。当時、韓国には対戦車装備がなく、北朝鮮はソ連から貸与されたT-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃により、各所で韓国軍は総崩れとなりました。このとき、米国のトルーマン大統領は朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかったため、即座の軍事介入には踏み切れなかったのです。国連軍が介入するも一時は釜山近くまで北朝鮮に制圧されました。
 そして9月15日、マッカーサー率いる米国軍が仁川上陸作戦を決行すると、戦局は一変しました。勢いに乗り一時は平壌まで制圧しました。しかし、その頃から中国軍が介入することとなり、結局38度線まで下がることになるのです。
 1951年3月24日に、マッカーサーは38度線以北進撃を命令するのですが、トルーマン大統領は戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大することによってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にすることをことを恐れ、結局4月11日にマッカーサーを解任することになり、停戦になったのです。

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 前述の通り、朝鮮動乱は単に朝鮮半島の分断という次元の問題ではなく、米国の戦後処理の甘さ故に、その後の世界的共産化を許す原因となっていきました。その頃日本においては、敗戦のどん底の状態であったにもかかわらず、安保理が結ばれ、この戦争のために日本の軍事産業が発展し、大きな経済効果をもたらしました。
 大韓民国及び北朝鮮共に祖国統一を願ってきましたが、未だになせない状態です。それどころか、今の北朝鮮は政治経済共に混乱状態となり、いつ勃発するかも知れないという不安を世界に与えています。
 文 鮮明先生は、今まで朝鮮半島の南北統一のために尽力してきました。文 鮮明先生は思想・経済・政治だけで南北統一をなすのではなく、更に真の愛で包み込むことによって、初めて統一を成すことができると語られています。
 日本から見れば、昔から様々な面で交流をしてきた隣国であるということ、36年間の日韓併合後日本から解放されて間もないことであること、この戦争が日本の経済成長に繋がっていることなどを考えれば、朝鮮動乱という戦争に対して無関心でいるわけにはいかないと感じます。

 今回、「平和統一和合祈祷会」を持つことによって、一日でも早く南北統一が成されるよう、私たちも意識を注ぎ、祈祷を捧げることを決意いたしました。

posted by タール星人 at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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