2009年06月03日

揺れる盧武鉉前大統領自殺説

 韓国の盧武鉉ノムヒョン前大統領(62)が5月23日朝、韓国南部の慶尚南道金海市郊外の自宅近くにある山に登山中、がけ下に飛び降りて自殺したという、ショッキングな報道が流れました。それ以前にも、不正資金の関連で幾度となく、日本でも盧武鉉大統領のスキャンダル報道されていましたが、本当に驚きでした。
 
 前大統領は有力後援者から六百万ドル(約五億七千万円)余りの不正資金を供与された疑惑で四月末に検察の事情聴取を受けていました。自殺直前、自宅で使用していたパソコンに家族あての遺書が残されており「私のせいで多くの人が受けた苦痛はとても大きい」などと書かれていたことから、疑惑を苦にした自殺とみられると、報道されていました。

 今まで韓国では大統領が亡命したり暗殺されたり、退任後に逮捕、収監されたことはあっても、自殺した例はなく、突然の事態に国民や政界の衝撃は強いようです。

 警察の調べによると、前大統領は警護要員一人と登山中で、午前六時四十分ごろ突然飛び降りたという。釜山大病院に搬送されたが、午前九時半に死亡が確認されました。
 
 しかしその4日後、自殺をめぐる“新事実”が明らかになりました。警察当局のこれまでの発表では、大統領府警護処に所属する警護要員は、前大統領が岩の上から飛び降りるまで一緒におり、自殺は突然で「制止する余裕がなかった」などと説明していました。
 ところが後の発表では、前大統領は23日午前5時47分、登山に出発。同6時10分ごろ、自殺現場となった切り立った岩に到着した。前大統領は警護要員に、両親の位牌のある近くの寺院へ行き、僧侶がいるか確認するよう指示。警護要員は同14分に寺院に向かい、確認後の同17分、岩の方を見渡したところ、前大統領の姿がなかったということだそうです。
 警察当局は、警護要員がウソの報告をした理由について「要人を守れなかった衝撃と自責の念、不安などで心理的に圧迫されていた」と説明しています。

 つまり、前大統領の自殺に目撃者はいなかったことになるのです。韓国メディアはずさんな捜査と批判しているが、多くは「自殺した事実は変わらない」とあくまで冷静にとらえているそうです。だが、インターネット上では「他殺説」も流れており、韓国内に波紋が広がっているのです。しかし、遺体はすぐに火葬されたので、真偽の確認が困難な状態になっているようです。また、遺書に関しても直筆のものではなかったので、信憑性が乏しいようです。
 昔は「近くて遠い国」という日韓の関係から、今や日韓の関係が近くなり、積極的に交流も行われいる最中、日本人であり、統一教会の信者である私としても関心を持たざるを得ない事件なのです。 
 
写真はソウルの景福宮で行われた韓国の盧武鉉前大統領の国民葬の写真
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posted by タール星人 at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「愛国心」について考える

 皆さんは「愛国心」という言葉を聞くとどう思うだろうか? ある人は「人として自然にわきいずる愛郷心だ」という人もいれば、「日本を軍国主義に引き戻す危険な精神だ」という人もいるでしょう。
 前者の愛郷心は、家族愛、友情などにも通ずるでしょう。「私」という存在が、単に自分のためだけに存在するのではなく、自分以外の家族や友人の為の存在でもあるということです。もっと広く解釈すれば、会社のため、地域のため、そして国のため、世界のためということになります。「私」という存在は、個性を持った唯一の存在でありながらも、他の人、動植物、自然などの森羅万象と関係しながら生きている。結局、全体の調和と発展に繋がっていくと言うことです。キリスト教的に言えば「愛」は「他者を自分と同じようにいつくしむこと」であるとあります。

 数ヶ月前にWBCで日本チームが大活躍をしました。殆どの日本人が、WBCを中心として熱く燃え上がった。今でもそのときの興奮を思い出します。知らず知らずのうちに、日本全体がWBCを中心として、確実に一つになっていきました。このとき私たちは、WBCに出場する一人一人の選手を意識すると言うよりも、「日本が勝って欲しい」という、「日本」というものを中心に一つになったといえるのではないでしょうか。この想いは「愛国心」に通ずるのではないでしょうか。
 また、後者の危険な精神というのは、第2次世界大戦敗戦の傷による警戒心からくものが強いのではないかと思います。なぜ、「愛国心」という言葉に警戒心を感じるのか。その一つの原因として、日本が軍国主義だった頃、軍部を中心とした「愛国心」というものが浸透していたからではないでしょうか。結局、「愛国心」という言葉を口実として多くの国民を戦場に動員したし、戦争と「愛国心」をいつも繋げた教育をしてきと感じるのです。「戦争」と「愛国心」がセットになっていたということです。

 もし戦争がなければ、愛国心が危険な精神だという発想も生まれなかったかもしれません。戦後の日本教育は、それまでの戦時中の教育とは180度方向転換したものとなりました。敗戦前は、天皇万歳、お国のためにという、国民を一つにして中心にまとめる教育だったのに、戦後はできるだけ、意識を分散させ、中心をなくしていくような教育に変わったのです。それでも、敗戦直後は日本の復興のために、国民が一丸となって働きました。それが日本の高度経済成長に繋がる一つの原因になったといえるでしょう。しかし、日本が経済的に満たされ、物質的な豊かさが備えられたとき、徐々に戦後の「中心をなくしていく」という教育の影響が現れ始めたのではないかと感じるのです。個人主義的な考えが、どんどん強くなっていったのです。

 「愛国心」とは国を中心として一つになることと言えますが、まかり間違えれば、自分の国を守るために他国を犠牲にするという国粋主義的な方向にも行きやすいとも言えるでしょう。

 ここで私たちは愛国心の「愛」という文字に重点を置かなければならないと感じるのです。前に述べたように「愛」とは「他者を自分と同じようにいつくしむこと」であります。この文章の自分を「自国」として、他者を「他国」と置き換えれば、「他国を自国と同じようにいつくしむこと」となります。だから「愛国心」の本来の意味は、自国の利益のみを追求するのではなく、他国と調和し、共に発展すると言うことになります。そのような教育が必要だと思うのです。

 先ほど、WBCの話題を出しましたが、試合というものが、単なる利益の奪い合いではなく、競い合うことによって、お互いを高め、良き交流をし、互いを尊重するという精神で行われれば、そこから闘争というものは生まれないでしょう。試合は勝つことに意義がありますが、同時に、そこに至るまでに、それぞれのチームが人生をかけて練習し、投入してきた生き様を互いに賞賛することが重要だと思うのです。

 最近は、国歌斉唱・国旗の掲揚に反対する意見も強いようです。確かに私も、国歌斉唱や国旗掲揚に対して、異様な雰囲気を感じたことはあります。しかし、私たちは本質を見定めなければならないと思います。人によって「愛国心」の捉え方は違うのが現実です。「愛国心」という言葉が、日本のためだけのものなのか、それとも世界との関係の中で、共生していくためのものなのか。今一度、愛国心の「愛」の本質について考えるべきだ思うのです。

 「今の日本人は浮き草のようなものである」と聞いたことがありますが、私もそう感じることがよくあります。マスコミの報道や周りの噂に影響されやすいと感じるのです。強い風が吹けば、簡単に流されてしまうのです。それは、根っこがないと言うことであり、精神的な中心を失いつつあると言うことではないでしょうか。私たち一人一人が本心と良心に尋ねて、答えを出していくことが必要だと思うのです。
posted by タール星人 at 10:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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