2009年06月23日

青少年犯罪の動向(1)−犯罪は本当に増えているか?

 私たちのイメージとしては、一般的に最近、青少年犯罪が増加していると感じている方が多いと思います。そこで、実際どうだろうかと調べてみたところ、下記のような統計グラフを見つけました。これは、凶悪犯罪に関しての未成年の検挙・補導件数を表したグラフです。そもそも凶悪犯罪とは下記のグラフから分かるように、殺人・強盗・放火・強姦のことを言います。このグラフから見ると、1960年をピークに犯罪検挙件数がかなり下がっていることが分かります。そして1990年には過去最低の件数まで下がりました。以外でした。但しこのグラフは1990年までのデータです。

seishonen1.jpg

 次に下のグラフは、1990年以降の青少年犯罪の検挙人員率を表したグラフです。実は、上のグラフは1990年までの統計なのですが、下のグラフは1990年以降のグラフと言うことで、近年、再び青少年の凶悪犯罪が増えてきていると言うことが分かります。

seishonen2.jpg

 グラフを見て分かるように、確かに1990年以降青少年の凶悪犯罪はかなりの率で上昇していますが、しかしながら1960年のピークの頃に比べると絶対件数としてはかなり少なくないのです。ではなぜ最近、青少年の犯罪増加がマスコミなどで大きく取り上げられるのでしょうか。また、私たちも実際に危機感を感じていることは否めないのです。

次に続く・・・
posted by タール星人 at 10:41| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月21日

ドラマ「明成皇后」を見る(5)−エピローグ

 明成皇后は三浦外務大臣赴任のことを聞いて、大変驚きます。なぜ、わざわざ外交に疎い人を朝鮮に送ったのか。三浦外務大臣は大院君と明成皇后に着目し、朝鮮進出のためにはこの2人を解決しなければならないと考えます。そしてその結論が、大院君を王として立て、明成皇后を失脚させるという政策でした。しかし、大院君は明成皇后と手を組んでいたので、大院君を思うように動かすことが難しかったのです。そこで、三浦外務大臣は「狐狩り」という作戦で、明成皇后暗殺を決行することになりました。三浦外務大臣だからこそ、このような無謀な計画を考えたのでしょうか。

 実は、暗殺が計画されていることを明成皇后は事前に知っていたと言います。それで、ロシアに協力を求めていたのですが、それまで協力的だったロシアが消極的になってしまったのです。日本との直接衝突を避けたかったのでしょう。明成皇后は完全に宮殿を守る術を失ってしまったのです。当然、ロシア大使館に逃げ込めば、助かるのですが、それは王室が国と国民を裏切ることに等しいので、できなかったのです。
 そして1895年10月8日、日本軍は朝鮮王朝に不満がたまっていた朝鮮の訓練隊を巻き込みながら、王宮に押し入りました。その際、明成皇后は暗殺され、直後に遺体を焼かれ、遺骨は宮殿内の池にばらまかれたのでした。日本軍はこの事件に対して、日本は関与しておらず、明成皇后に不満を持つ朝鮮人が暗殺したもので、日本軍は警護の為に宮殿に入ったと弁明しています。
 しかし、日本軍が暗殺に関与したという目撃証言が多かったため、日本は国際的に大きな非難を受けることになりました。また、朝鮮国民も国母(明成皇后)を暗殺した日本に対して激しい憤りを示し、収拾が困難になり、一旦朝鮮から手を引くことになりました。そして、日本は国際的な批判を避けるため、三浦外務大臣を初めとする日本人の当事者を裁判にかけることにしました。しかし証拠不十分ですぐに釈放となりました。
 その後、明成皇后は身分を平民に格下げされました。これは日本が強制的にさせたようです。しかし、このことが朝鮮内で大変な反発を買ってしまい、間もなく身分を復帰し、そのときに「明成皇后」という名が付けられたのです。ですから日本では「閔妃」という名前が一般的なのでしょう。逆に韓国では「閔妃」という呼び方は屈辱的なようです。

 暗殺に関する事実を私が知る術もありません。今回は、ドラマ「明成皇后」を見て感じたままを記事にした次第です。ですから、韓国側の一方的な情報とも言えます。しかし、日本人も知る必要はあると感じています。

 歴史というものは、真実というものは、ひとつであるということは当然のことですが、ひとつの真実も、国によって、人によって映り方が違うものだと感じます。日の出の時に映る影と、日の入りの時に映る影の方向が違うことと似ていると思うのです。ドラマ「明成皇后」は見る人によっては、気分を害するドラマだと感じます。特に日本人にとっては。しかし、国による歴史観の違いというものを受け入れずして、相互理解をすることは難しいでしょう。人によっては「今が重要だ、昔は関係ない」と考える方もいるともいますが、歴史の結実体として立っている今の私、社会、国家であるということを考えれば、決して歴史を無視することはできないと感じるのです。

posted by タール星人 at 17:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月19日

ドラマ「明成皇后」を見る(4)−晩年期

 晩年期は、明成皇后役として チェ・ミョンギル さんが演じることとなります。 (下の写真) イ・ミヨン さんに比べるとちょっときつい感じになってきますが、同時に少し豪快な雰囲気が出てきました。隣の写真は高宗(こじょん)です。

chemyongil1.jpgkojon.jpg

 さて1882年の壬午軍乱にて、一度は大院君が明成皇后を宮から追い出したのですが、結局、その後大院君は清に幽閉され、明成皇后は宮に戻り、再び実権を握ることになりました。ある面、宮中では安定した基盤を作ったのですが、次第に日本の軍事的・政治的干渉が強くなってきました。当時、日本と清は朝鮮を巡って緊張した関係にありましたが、1894年に日清戦争が勃発しました。日本は日清戦争のために10年準備したそうです。日本は英式の最新武器で清を攻め勝利しました。このことは朝鮮にとって大変ショッキングな出来事でした。あの大国である清が日本に負けるとは考えもしなかったのです。

 日清戦争後、日本の朝鮮に対する干渉は更に強くなりました。当時、外務大臣であった井上馨氏が朝鮮の外交に当たっていました。その頃の朝鮮の情勢は、やはり明成皇后勢力と大院君の勢力に2分されていました。そこで、井上外務大臣は、明成皇后を味方に付けて、朝鮮進出に取り組もうとしました。
 実はその頃、明成皇后と大院君との関係に大きな変化があったのです。明成皇后も大院君もともに、日本の朝鮮進出に相当な危機感を感じていました。そこで、明成皇后は大院君と内密に会い、「我々は政策が違うだけで、国を思う気持ちに違いはない」と訴え、お互いに水面下で手を組むことを決意したのです。このシーンは本当に感動的でした。お互いに殺したいほどの恨みを持ち続けていたのですが、お互いを許し、国を守っていくことを決意したのです。

 その後、明成皇后と大院君は表面上は争いあっているふりをしながら、芝居を打っていったのです。明成皇后は井上外務大臣をうまく利用して、多額の投資をさせました。そしてその資金を内密に大院君に渡し、大院君は清から武器を購入する準備をしていました。それは、日本の侵略を防ぐための戦略だったのです。
 しかし、明成皇后と大院君の共同作戦は、日本軍に知られて失敗に終わり、武器を入手することはできませんでした。そこで、その後、明成皇后はロシアと親しくし、それを盾に日本を牽制していきました。同時に大院君とも協力・相談しながら、少しずつ父と娘のような心情関係を結ぶようになりました。
 なお、井上外務大臣は明成皇后にうまく利用されたことの責任を負わされ、日本に帰国することとなりました。そして井上外務大臣の後任となったのが、三浦五楼氏でした。井上外務大臣は英国に留学したエリートで外交のエキスパートだったのですが、何と三浦五楼氏は根っからの軍人で融通が利かず、外交には全く縁のない人だったのです。しかし、このことが明成皇后の運命を大きく変えることになるのです・・・。

 果たして明成皇后の実像とは・・・
posted by タール星人 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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